僕らの歩く今

 

僕らはどれだけわがままなんだろう?

欲しかったものをひとつ手に入れれば、またひとつ、もうひとつを求める。

甘いものを食べれば塩っぱいものが欲しくなり、新しいパソコンを買えばもっといいものあったかもしれないと頭を悩まし、優しくされればそれをいつしか当たり前のものと勘違いしたりする。

もしすべてが思い通りになったとしても、すぐに次の不満を探してしまうだろう。

誰かが傷ついたとしてもそれは満たされることはないのかもしれない。

苦しいときはひとりで耐え忍び、上っ面では平気なフリをして笑ったりする。
それが美学とされる風潮すらあるかもしれない。

誰もが「フリ」をして日々を過ごしてる。
見ないフリ、聞かないフリ、感じないフリ。

そのくせ自分に余裕があるときは人に優しくしてみたくなる。
優しさが受け取られられず、送り返されたあかつきには、もれなく悲しくなったりもするんだろう。

 

やっぱり僕らはわがままだ。

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ーなんかいいことないですかね?


先日、後輩に聞かれた。

そもそも「いいこと」ってなんだ?
その「いいこと」が起きれば満足するのだろうか?

仮に周りにいいことが降り続けたら、僕らはその場に立っていられるのだろうか?

たぶん耐えられなくなる人の方が多いと思う。

多くの人は周りに悪いことが起こり続ける中に耐えられないように、周りでいいことばかり起こり続ける流れの中にもいられないだろう。

すべてがいい方向に傾きはじめると「このままうまくいくのだろうか?」という不安と、少しの問題が気になり始める。

僕らはさまざまな問題や壁にぶち当たり、それを乗り越えることで成長できると思っている。

それは間違いではないだろう。

しかしそれでは何かを乗り越えなければ成長しないという考えになり、問題がない状態に不安を感じはじめる。

そして始まるのは問題と不安の創造だ。

ある意味、都合がいい。
木は森に隠せ。じゃないけれど、本当に向き合わなければいけない、乗り越えなければならないことが出てきた時、軽い問題にすり替えることができるから。

ありもしないトコロに問題のタネを撒き、不安を実らせる。

そうして収穫した不安をふくろに詰めこみ、苦難があることに居心地の悪い安心を得る。

ふくろに詰め込んだあまたのそれらは、大切なモノを見失わさせるだろう。

ドラゴンクエストみたいにボタンひとつで「ふくろせいり」が出来たなら。

使いもしないどうぐと「それをすてるなんてとんでもない!」どうぐにせいりができたなら。

そんなことを思ってみても、人生にリセットボタンがないように、失恋の傷を癒す特効薬がないように、そんな便利なボタンは存在しない。

そう、便利なボタンはない。

だけどそもそも問題だって実はほとんどなかったりする。

頑張るために自分に問題や不安を課す必要もないし、誰かに愛されようとか、認めてもらおうとかもいらない。

大事なのはまず自分を認め、愛することだったりする。

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人生は山登りに例えられることがある。


これを、

いくつもの困難を乗り越えて苦しくても突き進んでいく山登り

と捉えるか

自分が辿り着きたい頂上を目指してワクワクしながら一歩一歩踏みしめていく山登り

と捉えるかは個人の自由だが、僕は後者でありたい。

色々なことが起きるから道を見失ってしまいそうになる。

そんなときは一度立ち止まって考えてみたい。

それは本当に集中しなければならないことなのか?
向き合わなきゃいけない問題なのか?

楽しく生きるには自分のやりたいことを、向かいたい場所を、自分が本当にわかってなければならない。

たくさんの「やらなければいけない」「考えなければならない」が僕らを襲ってくるだろう。

その中で自分にとっての大切なモノを見つけていくのは大変かもしれない。

今年もあと僅かになり、来年の目標や今年の反省をするかもしれない。

確かに過去の課題を見つけ、未来の計画を立てるのは大事なことだ。

だけど間違えてはいけないのは課題も計画も「今」という瞬間に集中するためだ。

流されそうになるけれど、何よりもまず今日一日を最高の一日に、今を最高の瞬間にする努力からはじめたらいい。

そんなことを、冬の風に流れる白い息を眺めながら思った。