小さな恋は木の下で

「ねぇ!」

 

少し鼻にかかるその高音が、僕を参考書の森から引きずり出した。
あまりに突然だったため、脳内で風に揺られていた化学式達は瞬く間に姿を消し、お別れの挨拶もできやしない。
その出来事に動揺したのもあって、僕はひと呼吸を終えたあと参考書からゆっくりと声の方向へと顔を向ける。
そこにあったのはさっきまでの静かな森とは似ても似つかない、なんとも楽しそうな少女の顔。


「あっ!やっとこっち向いた。寝てるのかと思ったよ。」


「君は何を言ってるんだ?
ここは学習塾で今が自習時間なら寝るわけがないし、やるべき事は1つに限られないかい?」
などと、さっきのお返しに少し皮肉っぽく言ってやろうと口を開きかけた瞬間に、彼女の止まっていた時は再び動き出す。


「ねぇ!聞きたいことあるんだけどいい?」


「いいけど。今いる場所が学習塾で、今が自習時間だと考えると、僕より遥かに頭脳明晰な君に教えられることなんてないと思うんだけど?」


僕がようやく発したこの言葉に嘘はあまりなかった。
塾にはいちおう通ってたものの、高校三年間は部活に熱中していて塾を休む事などお馴染みであったし、実際に目の前で笑っている「木下あかり」という少女は僕なんかよりはるかに秀才であり、今年になって勉強を彼女から教えて貰う機会は頻繁にあったのだから。


「はいはい。そーいうのはいいからさ!プロ野球のエースナンバーって18番多くない?あれってなんでかな?」


あかりは続けて言葉を紡ぐ


「ゆー君ってさ野球部のエースじゃん。だったら知ってるかな?って思ったんだよね!」


突然の呼びかけに、突飛な質問。少し頭を悩まして口を開く。


「昔の話、うん僕らが生まれるもっと前の話なんだけど、今でいう大リーグにすごいピッチャーがいたんだよね。そのピッチャーの名前がアルゴン・ライって言うんだけどさ。そのアルゴンって選手に敬意を表して18番。元素記号の18番はアルゴンでしょ?」


「ほー!凄い!さすがエースありがと!」


あかりはまるで嬉しい出来事があった犬のような顔をして席を立ち友人のもとに駆けて行った。
もし彼女が犬だったのなら確実に尻尾を振っていただろう。


その後ろ姿がかわいくて、


ー好きな女の子には意地悪したくなるもんだよ。


と言っていた兄貴の言葉を思い出す。

 

それにしてもアルゴン・ライって誰だよ?って自分で少しニヤけてしまった。
まあ、あんな架空のお話を一瞬で思いつきLie(嘘)というヒントまで入れた自分を我ながら誉めてあげたいとも思う。


「なにニヤついてんの?」


あかりはいつの間にか席に戻ってきて、さっきとは違うポーズと同じ笑顔で語りかけてきた。


「いや別になんでもないよ。さっきの話友達に教えてあげたのかな?」


「うん!みんなすごーい。って」


さほど野球にも興味がないだろう女子達がその話にどの程度の"すごーい。"を送ったのかはわからないが、デマっていうのはこうやって広がっていくのかもしれない。と少し感心した。


「それは良かった。アルゴン・ライも今ごろ女子高生の話題になって喜んでるだろうね。」


「ホント!ゆー君が物知りで助かったよ。Twitterにこの話をあげようって子もいたよ!」


ちょっと待て。いくらなんでもそれはまずい。話したこともない女子がSNSでデマを流して炎上なんかになった日にはこっちの後味は最悪だろう。


「いや。それはやめといた方がいいんじゃないのかな?」


「ん?なんで?情報は共有するものでしょ?実在しないアルゴン・ライさんもきっと喜んでくれるんじゃない?」


「え?」


「あはは。私を騙そうなど100年早いのだよワトソン君。でも、やっぱりゆー君は優しいね。そういうとこ嫌いじゃないよ。」


口角をかすかに上げた女子高生探偵はさらに僕を追いつめるため論を唱える。


「あ。でもTwitterにあげるのはホントだよ。今日も君をからかっておもしろかった。って私がね!」


そのイタズラな笑顔によって、僕はまた彼女というの森の中深くに足を踏み入れた気がした。


ーなあ兄貴。女の子も好きな男の子に意地悪したくなるもんなのかな?

 

 

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